縄文ネット アーカイブ
定義にも心
「きょうはよく晴れましたねえ。」「あら、どうなさったんですか? その包帯!」
「いやあ、どうも、みっともなくて。」
「お怪我?」
「ええ、サッカーで、ちょっと。」
「まあ、それは大変でしたわねえ。」
「年甲斐もないって、女房にも叱られたんです。」
「お若い証拠ですわ。」
「いやあ、どうも。」
どこにでもある日本語の、ごく普通の会話です。
このように言葉を交わすことで私たちは、言葉に込められた“意味”を伝え合っています。
その“意味”ですが、発した言葉の“意味”は一通りとは限らず、“定義”と“こころ”というべき二つの側面をもつことが多いようです。
まずそのうちの“定義”とは、“客観性を追求したところの意味”であるといえるでしょう。たとえば、
「きょうはよく晴れましたねえ。」
という言葉なら、
「きょう、晴れ。」
だけで“定義”としての“意味”は通じます。
しかしこれでは普通の会話にはなりませんから、せめて「きょうはよく晴れた。」ぐらいは言わないとならない。そこにさらにたっぷり“こころ”を盛り込んで、「きょうはよく晴れましたねえ。」と言うわけです。そういってこそ、普通の“会話らしい会話”となるからですね。
“こころ”とは、主観的であり、説明のしにくいものですが、日常会話では“定義”よりもむしろ大事なものです。
たとえば、上の会話が騒音の中だったとして、最初の一言がよく聞き取れなかったとしてみましょうか。
「××は××××ましたねえ。」
「×」の部分が聞き取れなかったとして、このように話しかけられた私たちは、普通どう答えるでしょうか。
(1)「はい? 何とおっしゃいまして?」
(2)「そうですねえ。」
実のところ、(1)でも(2)でも、どちらで答えても支障なしといえるでしょうね。
聞き取れていないということは、実は内容が伝達されていないということになるんですが、私たちの日常生活には、このように“こころ”が通じたことで良しとして、内容をまったく重視しないというような会話が決して珍しくありません。
また、天気をいったこの一言の目的について考えてみても、天気がどうであるという内容を伝達することは必ずしも目的ではありません。
あいさつことばとして、「お互い同じ空の下、きょうもこうして暮らしてる、この安心をさあ、分かち合いましょう。」とでもいうような、互いの表情や感情の共通することを確かめ合うことの方が、この場合は目的だったといえるわけです。
そのような目的で言葉を交わすのであれば、「×」の部分など聞き取れなくとも「そうですわねえ。」と答えておけばそれで十分、“こころ”が通じて一件落着となります。
むしろ「何とおっしゃいまして?」などと問いなおすことで、滑らかに流れるはずだったその場が気まずいものになることだってありますから、そうなるのは避けたいという思いもはたらきます。
「十時よ、十時。」
「十時ね。わかったわ。」
「改札を出て右側の券売機の前にいるから。」
「改札出て右の券売機ね。了解!」
この会話は、先に見た会話と違ってあいさつ的なものとは決していえないようで、「十時」の待ち合わせについてしっかり確認しておくことが最も重要な目的であって、“こころ”はさほど重要でないかのようにも見えます。
しかしここにもまた、互いが“待ち合わせ”という行為をどう捉えているかという“こころ”を表明し合う側面があって、それが「時間と場所の確認」と同等に重要なことであったりもします。
つまり、「十時」の待ち合わせについて、この二人が積極的かどうか、好ましいこととしているかどうか、あるいは他の諸々の用事に対してこの待ち合わせが優先順位としてどれほど価値の高いものなのか、といった“こころ”を確認し合うこともまた、この会話の重要な目的のうちとなるはずなんですね。
「十時よ、十時。」
「はい。」
「改札を出て右側の券売機の前にいるから。」
「はい。」
「わかってんの?」
「はい。」
このように、“こころ”の確認がしっくりとできず、どうもちぐはぐな会話となる場合もあります。
ここで何度も出てくる「はい」は「同意」や「肯定」を意味するのだから、語義としてみたら不足はないはずなんですが、これでは果たして“こころ”が通じているのかどうかよくわかりません。
近ごろの言葉では「テンションが高い」とか「テンションが低い」とかいうようですが、このように「はい」ばかりを繰り返せば、相手から「テンションが低い」と見なされて、相手の高いテンションと同調できていないという心配が生じてきます。
二人とも同じようなテンションであるかどうか。
心配が生じてこないかどうか。
こうしたことを確認するのもまた“こころ”の部分であって、“定義”としてどうのという部分ではありません。
私たちの日常会話では、かくも“こころ”が重要なんですね。
(060316)
