日本語文法 研究ノート『本当の意味』
第四章 「る/た」の主観
「食べる」「行く」「する」「来る」などの語形の中で「〜る」や「〜う」の形になるゴビ、これを総称して「る」としよう。それに対して「食べた」「行った」「した」「来た」などの語形における「〜た」と、「読んだ」「急いだ」などの語形における「〜だ」のゴビをまとめて「た」としておこう。
そして、この最も基本的なゴビ、「る/た」の伝える内容となる《主観》=《認識のあり方》を特定していこう。
1.「ある」と「あった」の発話例
この本の冒頭でも触れたように、「る/た」の使い分けというものは、日本語を使う上で最も基本的なことだ。そして、日本語を母語として生まれ育った人でさえあれば、「る/た」の使い分けを間違えるということもない。
しかしそれはどんな《認識のあり方》で「る」になり「た」になるのだろうか?
日常どこにでもありそうな発話例をあげてみる。
ここでは「動詞」の「あり」を使って、「ある/あった」、どちらを使っても間違いだとはいえない、という発話例とした。
(1)車で出掛けようとした父が運転免許証をどこに置いたか忘れてしまい探していると、居間でテレビを見ていた娘が教える。
(るの場合)「靴箱の上にあるわよ。」
(たの場合)「靴箱の上にあったわよ。」
(2)昔ながらの小さな古本屋に少年が立ち寄り、夏目漱石の『坊ちゃん』はないかと店主に問う。それに店主が答える。
(るの場合)「どこかにあると思うよ。その辺、探してみて。」
(たの場合)「どこかにあったと思うよ。その辺、探してみて。」
(3)記者の言葉「あ、それだとまた音信不通ってことにも?」に編集長が答える。
(るの場合)「そうか、そういう危険もあるな。」
(たの場合)「そうか、そういう危険もあったな。」
(4)わらび採りに来た家族連れ。手分けして探しにかかるとすぐ、元気な長男が一番に見つけて、
(るの場合)「おーい、ここにあるよー!」
(たの場合)「おーい、ここにあったよー!」
この例では、「る」でも「た」でもどちらでも、不自然と感じられることはないし、間違いだということもない。
それでも「る」をいうか「た」をいうかによって、伝えられる主観は明らかに異なってくる。また、主観が異なるのは明らかだが、客観的には同一の状況にあって同一の対象を認識内容としている。
次の項からは、明らかに異なるその主観を特定していこう。
2.最も根源的な認識のあり方
次の表に見るように、「動詞」における「る/た」は、「形容詞」なら「〜い/〜かった」、「名詞」なら「〜だ/〜だった」となる。
「動詞」 〜る(「居る」など) 〜た (「居た」など)
「形容詞」 〜い(「よい」など) 〜かった(「よかった」など)
「名詞」 〜だ(「卵だ」など) 〜だった(「卵だった」など)
私たちの実感としては、「〜る」「〜い」「〜だ」が同じ内容(伝える意味)、「〜た」「〜かった」「〜だった」が同じ内容であって、「品詞」が異なったからといって、ゴビの伝える内容が変わるといった実感はどこにもない。
しかもこのゴビは日々大量に使用され、私たちの日本語にとって、これ以上に基本といえる基本はないというほど、最も根幹となる部分にある。
これはどういうことだろうか。
「る/た」というゴビが伝える、この《一対の認識のあり方》というものは、日本語を使う私たちの、最も根源的な《認識のあり方》だとは考えられないだろうか。
まず「動詞」であれ、「形容詞」、「名詞」であれ、同じ内容を伝えるゴビが使われる。
それが、「買う/買った」「安い/安かった」「中古だ/中古だった」というように一対となって、あたかも「陰」か「陽」かというように、はっきりとした識別をする。
恐らくそれは、「肯定/否定」にも匹敵するほどのものだろうし、さらにいえば、「肯定/否定」なら《認識の対象》となって意識にものぼるが、これは《認識の対象》とはならず無意識のうちにおこなわれる《認識のあり方》なのだと考えたら、あるいは「肯定/否定」よりもさらに根幹というべきところにあるともいえるかもしれない。
そして、もしこれが、最も根源を成す《認識のあり方》だとすれば、私たちがおぎゃあと生まれた時から始まっている、《主観と対象の対立関係そのもの》だと見ることができるのではないだろうか。
そして、もしこの《主観と対象の対立関係そのもの》を、発話によって伝える必要があるとすれば、その衝動となるところには、《主観》と《対象》、どちらが勝るか、どちらが押し、どちらが引くか、といった無意識の感覚があるのではないだろうか。
3.押しと引き
日常の、家族との会話、友人や同僚との会話でも、私たちは常にこの「どちらが押し、どちらが引くか」という認識のやりとりをほとんど意識もせずにおこなっている。
そしてそれこそが、言葉による生活そのものだとさえ思われる。
A「ちょっと暑いわね。」
B「そう?」
Aが「暑い」と主張。これが《押し》になっている。Bはそれを受けて引くべきかどうかというところ。「あなた、階段のぼって来たからでしょ?」といえば、Aの主張を押し返すことになる。
A「加藤君に誘われたんだ。」
B「今から?」
A「すぐ帰ってくるから。」
Aが出掛ける様子を見せ、出掛けても問題ないことを説明。これが《押し》になっている。Bはそれを受けて引くべきかどうかというところ。「じゃあ行ってらっしゃい。」といえば、《引き》になり、「だめよ、遅すぎるわ。」といえば、押し返すことになる。
A「良かったじゃないの。」
B「何いってんだい。ちっとも喜べないよ。」
Aが「良かった」といって肯定的に評価。これがまず《押し》になっている。Bは「喜べない」といってその評価を押し返す。Aが続けて「喜んどいたらいいじゃない。」といえばまた軽く押し返すことになり、そこを「それもそうよねえ。」と同意すれば、とりあえず引くことになる。
右にあげた例は、自分と相手、つまりは自我と自我との間で繰り広げられる押しと引きだが、これとよく似たことを、私たちの《主観》も常に、《認識の対象》を相手に繰り広げていると考えられるのではないかということだ。
自分の主観が相手となる対象を押すか、その逆か。自分の主観が相手となる対象に対して主導的となるか、逆に従うか。
相手となる対象を請け合うか、それとも受け止めるか。
対立関係というものがある限り、そこには必ずそのような押しと引きが生じ、それによって自分が《主》となるか、《従》となるかという、認識以前の認識が生じる。それは恐らく、森羅万象にも通じるものごとの原理のうちにあるものだろう。
4.きわめて単純な主従関係
以上の考察から、「る/た」の伝える内容とは次のようなことではないかと見る。
主観と対象の《主従関係》や《力関係》というべき認識のあり方
その上で、「る」「た」それぞれについては、次のようなことではないかと見る。
【る】‥対象との関係で《主観が主》
【た】‥対象との関係で《主観が従》
これを表したのが次の図だ。左側の黒い文字が対象のヨビカタで、白い文字が発話の語形となる。
この説明を、1.にあげた発話例の(1)から(4)に照らし合わせながら、確認しておこう。
(1)車で出掛けようとした父が運転免許証をどこに置いたか忘れてしまい探していると、居間でテレビを見ていた娘が教える。
「靴箱の上にあるわよ。」
対象「あり」との関係で、娘の主観が主となった認識のあり方。
「靴箱の上にあったわよ。」
対象「あり」との関係で、娘の主観が従となった認識のあり方。
(2)昔ながらの小さな古本屋に少年が立ち寄り、夏目漱石の『坊ちゃん』はないかと店主に問う。それに店主が答える。
「どこかにあると思うよ。その辺、探してみて。」
対象「あり」との関係で、店主の主観が主となった認識のあり方。
「どこかにあったと思うよ。その辺、探してみて。」
対象「あり」との関係で、店主の主観が従となった認識のあり方。
(3)記者の言葉「あ、それだとまた音信不通ってことにも?」に編集長が答える。
「そうか、そういう危険もあるな。」
対象「あり」との関係で、編集長の主観が主となった認識のあり方。
「そうか、そういう危険もあったな。」
対象「あり」との関係で、編集長の主観が従となった認識のあり方。
(4)わらび採りに来た家族連れ。手分けして探しにかかるとすぐ、元気な長男が一番に見つけて、
「おーい、ここにあるよー!」
対象「あり」との関係で、長男の主観が主となった認識のあり方。
「おーい、ここにあったよー!」
対象「あり」との関係で、長男の主観が従となった認識のあり方。
「る/た」の伝える認識のあり方については、およそ以上のようなことだろうと見る。
5.客観ではなく、心
全然客観的ではない説明、というものをしたり聞いたりしたことはないだろうか。たとえば、次のようなことだ。
「父ちゃん、まずまずってなに?」
「まずまず?」
「まずまずだって。盆栽。」
「ああ、まずまずか。隣のじいさんの盆栽だな? まずまずねぇ…うーん、まずまず、ってのはだな、…マズ、マズ…って感じだよなぁ。」
「わかんない。」
「マズ、マズ…って感じ」では、説明になっていないということにもなるが、それをわかりやすく客観的には説明できなかったとき、めんどくさいということもあるのかもしれないが、その言葉をそのまま使い、かつ語気で精一杯気持ちを込めて、このように「説明」する、ということがある。
同じように「る」と「た」を説明するにも、どうにも説明のしようがないとなれば、「る」は「ルッ!」、「た」は「タッ!」とでもいうしかない。
しかし下手に長々と説明を試みて失敗するよりは、こうした「説明」の方がまだ害がないということもあるかもしれない。
このような、あまり役に立たないと見える説明であっても、精一杯気持ちを込めて「マズ、マズ」といったり、「ルッ!」「タッ!」といったりするのは、なんとかその心を伝えてやろうという意気込みがあるわけだし、説明すべきその言葉は、決して客観性で使っているわけではなく、そういう心=主観で使っているという認識が誰にでもあるからだ。
それを無理に客観性で説明しようとすれば、自分が客観性とは全然無縁に使っているくせに、相手には客観性を擦り込んでしまうというような害をもたらすことだってありうる。
そうした意味では、ここでおこなった《主観が主》、《主観が従》という説明は、「る」は「ルッ!」、「た」は「タッ!」という「説明」を補足するものであって良いと思うし、むしろそうでなければいけないのではないかと思う。
現実に私たちの実感は、どこまでも主観的かつ単純なもので、間違えようにも間違えようがないというのが「る/た」だ。誰もがみな、「単にそういう心」を伝えるものだと認識している。
そんな客観性のないところへ「過去」だの「完了」だのといった安直な客観論をねじ込もうとすることは、日本語に対する破壊行為ともなりかねないだろう。それでもまだ私たちの日本語が破壊されていないのは、誰もそんな客観論を信じていないおかげにほかならない。
「る/た」は「心」であり、認識の対象とはならないものだ。それは「押し気味の主観」か、「押され気味の主観」かといった、意識にものぼらぬ相対的な認識形式にすぎない。
主観がそうした相対的な基準にもとづいた認識形式をとり、それが説明不能の「る/た」となって発話されるのに対し、「過去」といったものには絶対的な基準が必要となる。しかし実感として、私たちの主観はそんな基準を備えてはいない。絶対的な基準で物事を判別するのは思考の仕事であって、主観の仕事ではない。
とはいっても、これでは単純すぎて物足りないと思われる向きもあるかもしれない。物足りない部分は、次の項以下で補ってみよう。
6.「時間」や「状態」のこと
この単純極まりない説明には「過去」「完了」といった、「時間」や「状態」に関わる見方は含まれない。「る/た」がもし、「文法の定説」で言われるように、「時間」や「状態」を表現する機能を持つものだとしても、その本質的な認識のあり方(認識形式)には「時間」も「状態」もないと見るためだ。
《主観が主》か《主観が従》かという認識のあり方が伝われば、副次的なところで「時間」や「状態」も表現可能、という順番なら、あるだろう。
第一義として、直接的に伝えられるゴビの内容は認識のあり方、すなわち認識形式であり、それが伝えられれば、副次的なところで間接的に、「時間」や「状態」といった《対象のあり方》も、示唆したり表現したりできる。それが妥当な順番というものだろう。
例えば「つく/ついた」といった場合、本質的な意味として伝えられる内容が、副次的にどんな「意味」となって伝わりうるのかを次に示してみよう。
【つく】
◎本質的な意味‥
対象「つき」に対して、主観が主導的となる認識のあり方
↓
○副次的な「意味」‥
必ずしも現実の対象「つき」を受けての発話とは限らない
・客観的状態が「未完了」のこととも思われる
・客観的時間が「現在」ないし「未来」のこととも思われる
【ついた】
◎本質的な意味‥
対象「つき」に対して、主観が従属的な認識のあり方
↓
○副次的な「意味」‥
現実の対象「つき」を受けての発話である可能性が高い
・客観的状態が「完了」のこととも思われる
・客観的時間が「過去」のこととも思われる
※「発見」というニュアンスも、同時に伝達可能となる
7.あした学校へ行った。
「過去形」といった「定説」を否定するようなことばかり書いていると、次のような反論があったりする。
「あした学校へ行った。」とはいえない。「あした」は未来であり、「行った」は「過去」だからだ。つまり「過去形」がないということはできない。
「過去形」がない、とまでいう必要もないのだろうが、「時間」が語形を決める本質的な基準となっていないことは、これまでに述べてきた通りだ。
この例文についても、「行った」が「過去」だから未来には使えない、という説明が本質ではない。
ここはまず、「あした」と限られていることに注意しなければならないだろう。現実の未来である「あした」に限られてしまえば、そこでの「行き」という対象も、現実の、未来の対象となり、それはまだ現実には存在しないことになる。
それなのに「行った」で《主観が従》と発話するのでは、現実に「行き」が存在するという意味が強くなり、矛盾が感じられる。
×矛盾
対象「あした」‥現実における未来の時点
「行き」 ‥「あした」と限られ、現実にはまだ存在しない
主観「た」 ‥主観が従となり、対象が現実に存在するようなことになる
8.退いた退いた!
「た」には、このような用例もあって、しばしば議論の的となるようだ。
男「退いた退いた!」
時代劇に出てくるような威勢のいいせりふだが、この言わんとするところはつまり、
男「退け退け!」
ということだ。しかし、「退け!」よりも「退いた!」の方が、言葉としてきつくないように感じられる。発話の相手との衝突を避けるような意味合いが感じられるのだ。それでいて「退け!」よりもっと急かすニュアンスがある。
これも「た」だから、《主観が従》となる。そしてこの場合、「退く」のは往来の人々だから、認識の対象となる「退き」は、退くべき往来の人々にある。
「退いた!」と言われる往来の人々は、「退き」が自分たちのことであるとわかっている。つまり自分たちが主となる対象だと言われているわけだ。
人々‥主となる対象
男 ‥従となる主観
人々が《主》となり、男の方が《従》となることによって、双方に認識上の衝突がさほど生じないというわけなのだろう。
しかし、自分たちが「退くよ。」というより先に「退いた」と言われたら、「しょうがないな」と退くよりほかにない。
9.あしたは金曜だった
「きょう=木曜」「あした=金曜」といった《対象》がある。月曜から忙しく働いてきて、金曜までがんばると土曜は休みという人が多くなったが、私たちは日々の「曜日」というものを認識の対象としていて、休みの日にはちょっと出掛けようかと計画を立てたりする。
次にあげるのは、八月のある朝にあった話、どこにでもありそうな話だ。
学校は夏休みなので、子供たちは平日でも学校にかよっていない。お父さんは土日休みで、平日に子供と遊んでやることはできない。ところがこの日の朝、会社に出掛ける前のお父さんはうっかり「明日はプールに連れて行くぞ。」と、子供に約束してしまった。お父さんは「あした=土曜日」と思い込んでいたのだ。子供は夏休みで曜日のことなど頭にないから、お父さんが連れて行ってくれると言えば何も疑わず、「わーい!」と喜んで家を飛び出して行った。近所の家にでも自慢しに行ったのだろう。お父さんはそこではたと気がつく。
「あしたはまだ金曜だった。」
「現在/過去」などにこだわると、「あした」のことが「だった」となるのはなぜだろうと悩まなければならないが、4.に見た通りの説明でこれも簡単に解決する。
つまり、《主観が従》で、お父さんの主観は「あした=金曜」という対象に従う。「だった」はそのような認識のあり方を伝えているだけのことだ。
もちろんここで、「あしたは金曜だ。」と、《主観が主》の「だ」で言うこともあるだろう。
その場合は、対象に従属的な認識のあり方はすでに過ぎていて、「あしたは何曜日だ?」と自問すれば、すでに「金曜」という解答が自分の認識から出せるレベルになっていると見ることができる。
10.対象に従う姿勢を伝える「た」
《主観が従》となる認識のあり方を発話することは、しばしば《謙虚さの表現》ともなる。たとえばこういうことだ。
「申しわけございません。さきほど私、三時半からと申し上げてしまったんですが、あすの講演は三時からでした。」
「あす」のことなのに「でした」という。これも「た」が、「過去」や「完了」では説明できない例のひとつだ。もちろんこれも、《主観が従》と見るだけで、ごく簡単に説明できるわけだが、《従》とは従う主観、素直に受け止める認識のあり方でもあり、謙虚さを伝えることにもつながる。
「あすの講演は三時から」という対象がある。そこで《主観が従》となる認識のあり方を発話することができれば、正しい対象に素直に従う主観が伝わるのだ。
ではもしここで「です」としたらどうだろう?
「申しわけございません。さきほど私、三時半からと申し上げてしまったんですが、あすの講演は三時からです。」
「申しわけございません。」や「申し上げてしまったんですが、」といった謙虚さとは裏腹に、最後で「三時からです。」と《主観が主》となったのでは、言葉のセンスがないというか、慇懃無礼というか、つまり、正しい対象に素直に従う姿勢というものを十分伝えきれてはいない、ということにもなってきそうだ。
11.発見したことをいかに表現するか
「る/た」は、《主観と対象の主従関係》を内容とし、「る」なら《主観が主》で、「た」なら《主観が従》であるということを見ていただいた。
初めてこういうことに気付いたのは、今から十数年前の一九九三年ごろのことで、とても単純でストレートな「る/た」がどうしても単純には説明できず、苦しみに苦しんだ末のことだった。
どうやって気付いたかといえば、自分の心の中でただ、「わかる、わかった、わかる、わかった、わかる、わかった、わかる、わかった…」と無心に唱え続け、最後に「あ、これか。」と気付いたのだ。
「わかる」というときには、心のいちばん奥から外側へ、気だかなんだかが、押すか出るかする感じ。「わかった」というときには、その逆で、外側から中へ入るか押されるかする感じ。この「出る/入る」という感じが、「る/た」にあるように感じたのが最初だった。
この発見を初めて発表させていただいたのは、大修館書店さんの月刊『言語』という雑誌の一九九四年十二月号だったが、当初は、「る」=《請け合い》、「た」=《受け止め》という用語が適当だと思って、それをつい最近まで使ってきた。しかしこの本でそれをあまり使わなかったのは、《請け合い/受け止め》という用語が、どうも《認識の対象》と混同されやすいのではないかと心配になったためだ。
とにかく初めは「出る/入る」という感じ、これを何と表現するかが骨だった。過去にそういう感じがあると気づいた人もなさそうだったから、それをどう呼ぶべきかということまで、自分で考えないとならなかったわけだ。
「る」は「ルッ!」、「た」は「タッ!」と説明することと、「出る感じ、入る感じ」と説明することには、ほとんど差はないともいえるレベルだったから、これを誰にでもわかってもらえるようにするには、いったい何がどこにどうなるのかを説明しなければならなかった。
当初は「認知中枢とその外側」という表現を使ったが、脳について知識があるわけでもないからいい加減なこともいえない。それで今は、主観と対象の対立関係だと、説明のしかたが変わってきたわけだが、それというのも、誰でも経験できるはずのこの実感をどう表現するかという問題なので、《主観が主/主観が従》といって、それで最善の表現になっているかどうかはわからない。だから今後、もっと適当な表現が見つかったら切り替えることもあるだろう。
いずれにしても、あまり多くの言葉は必要ないように思う。
「る/た」をきわめて単純に使い分けているのが実感として確かにある以上、基本となるモデルも単純であればあるほど真実に近くなると思われるからだ。
多言を弄して説明するというのではなく、「その感じ」に一番近いと感じられるものを、あり得そうなモデルの中から見つけるということで良いのではないかと思う。
ここまでを表にまとめておこう。
ゴビの形 主観(認識のあり方)
る 主観が主
た 主観が従
12.作文での「る/た」
この本の冒頭で、作文するときに「る」とすべきか、「た」とすべきかに迷うことがあると述べたが、これはいったいどうしてだろうか。
これはとにかく、私たちが話すときの言葉と、書くときの言葉とでは、「文にする」という方法において違いがあるためなのだろう。
ちなみに、「ペンライト」の文を再掲してみよう。
宝物のペンライトがつかなかったので弟が父に電池をくれという。父はひきだしから電池を出してきて、兄に交換してやれと渡す。兄はペンライトから古い電池を取り出して新しいものに交換してやる。
スイッチを入れると先端の電球は明るく光り、弟が「ついた!」といって喜ぶ。父が「ついたか?」と聞くと、兄は「つくよ。」と答える。
そしてこれを、せりふ部分を除いて全部、「る」と「た」に相当する部分を相互に入れ換えてみよう。(傍線が入れ換えた部分)
宝物のペンライトがつかないので弟が父に電池をくれといった。父はひきだしから電池を出してきて、兄に交換してやれと渡した。兄はペンライトから古い電池を取り出して新しいものに交換してやった。
スイッチを入れると先端の電球は明るく光り、弟が「ついた!」といって喜んだ。父が「ついたか?」と聞くと、兄は「つくよ。」と答えた。
このように入れ換えても、どこにも全く不都合が見当たらない。これではどっちだろうと悩んでしまうのも当然だ。
どちらにすべきかという判断の基準は、もちろん「時間」でも「状態」でもないわけだが、作文には、上手な文を書くという目的もあって、バランスだとか、重複だとか、そういったことにも気を遣う。書きながら自分の文を読んでもいるから、余計に細かいところが気になって、ここはこうした方がいいか、ああした方がいいかと、ごちゃごちゃ考えることになる。
だから「る/た」に限らず、「書いたけどこれでいいのか?」という細かい疑問が常について回るのだろう。
それが話し言葉だったら、相手もいることだし、必要最低限で短い文を発すればよい。長い文と違って組み立て方など考える必要もないから、相手を騙すつもりさえなければ、思った通りに話せばよいということになる。
だから「る/た」でもなんでも、迷うということがない。
自分の《主観のあり方》をストレートに発すれば、それが一番よく伝わり、健全なコミュニケーションともなるのだろう。
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