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日本語文法 研究ノート『本当の意味』


第五章 いろいろな、ゴビの説明

1.「〜てしまう」

 「食べる」に対して、「食べてしまう」という言い方がある。
 地方によって違いはあるが、「食べちゃう」「食べてまう」など、「仕舞い」というヨビカタ部分が崩れてゴビのように変わってしまった語形もある。また、「食べてしまう」という本来の形のままであっても、ヨビカタ部分が意味を失って《主観》だけを伝えていることが多い。
 本来の「仕舞い」の語義を考えたら、単語としてはヨビカタの方に分類できそうなのに、《対象》を内容とはせず、内容は《主観》だけになっているわけだ。
 このような、ヨビカタとゴビの中間のような単語は他にもあるが、「〜てしまう」は、使用頻度からしてもその代表的な例かもしれない。

 そこで「〜てしまう」(「〜ちゃう」など)を、《主観》を表すゴビと見て、その内容を説明してみたい。
 (1)から(3)には、「〜ちゃう」の言い方と「普通の言い方」とを並べてみた。感じられる違いを比較していただきたい。

(1)おおかみさんが、こぶたさんたちに
 a「食べちゃうぞー!」
 b「食べるぞー!」

 凶悪殺人犯が「殺しちまうぞ!」というのと、「殺すぞ!」というのとを比べても、どっちが怖いかということではなさそうだ。「食べるぞー!」と「殺すぞ!」には、意志をもってそうするというニュアンスを感じるが、「食べちゃうぞー!」と「殺しちまうぞ!」とには、話し手の意志に関わらずおこないうるぞ、というような、無責任なニュアンスを感じるのではないだろうか。

(2)最後に残ったケーキの一切れを誰も食べたがっていないので、
 a「だったら私が食べちゃうわよ。」
 b「だったら私が食べるわよ。」

 「食べちゃうわよ。」には、「後で誰かが食べたいと思っても遅いわよ。」というようなニュアンスを感じるが、「食べるわよ。」には、相対的にそうした感じは稀薄ではないだろうか。

(3)冷蔵庫にあったはずのプリンが見当たらず、
 a「誰か食べちゃったの?」
 b「誰か食べたの?」

 「食べちゃったの?」では、自分も食べたかったという悔しさが表現されそうだが、それに比較すると「食べたの?」では、そうした感情はさほど感じられないのではないか。

 本来が「仕舞い」というヨビカタであるから、本来の内容である《対象》(語義)を意味する場合も当然あるわけだが、その《対象》が消えてゴビに残る《主観》は、次のように説明できそうだ。

 《本意の外という認識のあり方》

 他にも若干の例をあげるが、どれも同じ《主観》を表している。

 「ばれちゃうよ。」
 本意‥ばれてほしくない、ばれたら困る

 「あ、消えちゃった。」
 本意‥消えないと思っていた、消えてほしくなかった

 「もう帰っちゃった。」
 本意‥まだ帰らないと思っていた、まだ帰ってほしくなかった


2.「助詞」の主観

 「二」の5.ですでに、「が」の内容とするのは「指し示し」という主観であることを見たが、ここで改めて「助詞」とされる若干の単語について、その主観がどうあるかの説明を試みよう。

「が」‥指し示し

 「私がやらせていただきます。」‥「私」を指し示す
 「工場が燃えちゃったんだよ。」‥「工場」を指し示す
 「やっぱり何かが足りない。」‥「何か」を指し示す
 「うーん、考えがまとまらない。」‥「考え」を指し示す

「は」‥限り、囲み

 「それはいいアイデアだ!」‥「それ」を囲む
 「お手洗いはあちらです。」‥「お手洗い」を囲む
 「お金はないんだけど、いいの?」‥「お金」に限る
 「気合いは入ってるね。」‥「気合い」に限る

「も」‥限らず、外さず

 「このへんも、荒れちゃってるわねえ。」‥「このへん」に限らず
 「誰もいませんでした。」‥「誰」に限らず
 「わたしも連れてってよ。」‥「わたし」を外さず、「わたし」に限らず
 「五万円もあげちゃったんだって?」‥「五万円」に限らず:驚くべき数量を指す

 これら説明は決して完全なものではないだろうし、他の「助詞」も含めて、まだまだ研究と議論の余地はあると思うが、《主観》がどうあるか、どんな認識形式なのか、という視点さえ持てば、説明しにくい様々なゴビも、きっと的確な説明ができるようになってくるのではないだろうか。


3.「ば/たら」

 「たられば」と言われるゴビは、「仮定の話」などとよく言われるところだが、私たちの主観が「仮定」という《認識のあり方》を持ち得るものかどうかよくわからない。

【「ば」の例】
 「朱に交われば赤くなる。」
 「一人で行けば? 私は行けないんだから。」
 「やればやるほど悪くなっていく。」

【「たら」に変えたもの】
 「朱に交わったら赤くなる。」
 「一人で行ったら? 私は行けないんだから。」
 「やったらやっただけ悪くなっていく。」

 「ば」も「たら」も、「仮定」というほど限定的な内容ではなくて、もっと広く単純に、認識の対象が次へと「展開」または「転換」する《認識のあり方》であると見ておけばよいのではないかと思う。

 「完結する主観」→「展開する主観」
  「ある」   →「あれば」
  「あった」  →「あったら」


4.「どうも」と「ちょっと」

 「二」の6.では「感動詞」とされるものを少しあげたが、「助詞」や「活用語尾」以外の単語の中にも、対象を内容とせず主観を伝えると見られるものがある。毎日頻繁に使われる単語から、「どうも」と「ちょっと」をあげて《主観》=《認識のあり方》を考えてみよう。

【どうも】‥言葉のお辞儀

 「いやあ、どうもどうも!」
 「どうもすみませんでした。」
 「どうもありがとう。」
 「どうもでーす。」 

 これはどれも「言葉のお辞儀」と見れば、伝わる内容は簡単に説明できる。

 「どうもよくわからんな。」

 この「どうも」は「お辞儀」というと変だが、「頭を垂れる」、「頭を傾ける」、「首をかしげる」と見れば、同じような認識のあり方であると見ることができるだろう。
 首をまっすぐにしていられない時の《主観》、それが「どうも」に共通していると見られるわけだ。

 「うん」「はい」「ええ」なども、「うなづき」という《首の動作》に至る衝動が言葉になる。何も声を発したくないときや、声が出せない状況下では、「うん」という代わりにただうなづくことがあるから、そうした動作のもとになる衝動が言葉のもとになることもあるわけだ。

【ちょっと】‥ポーズボタン

 「ちょっと待って。」
 「ちょっと! 何してんの!」
 「山田くん、ちょっといいかな?」

 「ちょっと」は、《対象》としてなら「少量」であるとか「一瞬」であるといった分量のわずかなことを表すが、そうした本来の《対象》としての意味を失い、何らかの認識のあり方を表すためにも使われていて、「どうも」同様、使用頻度も非常に高い。

 右にあげた発話例で見ると、「相手の行為を制止する」感覚で発話されていることが容易に見て取れる。

 Aさん「すいません。この近くに有名な占いの先生がお住まいと伺ったんですが。」
 Bさん「いやあ、私にはちょっと…。」

 ここでBさんは、Aさんを制止してはいないものの、AさんがBさんを相手に聞き出そうとした行為の流れをBさんが遮ってしまっていることには変わりない。
 このように見ると、何らかの「流れ」というものがその場にあって、それを止めたり遮ったりするときに、「ちょっと」が発話されるという説明ができるのではないだろうか。
 「ちょっと」は、ビデオなどの「ポーズボタン」のような働きをする単語だといえるのかもしれない。